妄々録拾穂抄

MowMowしている

都合の悪いことばたち

年をとると考えが固まってくる。良し悪しあるが自分の意見が出来てきて、好悪もはっきりしてくるものである。ある意味"我"が出来てくるとも言えるし一方で頑なさが現れてくるとも言える。

いろんなものに慣れてしまって、毎度思考して物事を処理するよりは経験の型にはめて自動で処理してしまいがちだ。そうやって慣れた状態に安住してしまうと思考の凝り固まりが加速するし、新しい考えにも否定的になりがちになる。SNSでいうところのエコーチェンバーにも陥るし、自分の”我”を刺激してくる不快さにも回避的になってくる。

不出来な労働者の自分でさえあまり低きに流れていく状態にはしたくないし、ビジネス書も読むのだが、正直自分にはあまりやりたくないことや心情的に納得し難いことがよく書いてある。受け付けるかどうかは別としてそういう都合の悪さを刺激してくる言葉にも効用はあって、自分の思考の外部の存在としてそういうのに触れるのは重要だと思う。

思考の安全地帯にいてあまり自分に負荷をかけない状態でいることは楽なのだが、人間自分には甘いもので己を締めようと思ってもうまくいかない。他人の言葉が勝手に割り込んでくると否応なしに思考を対抗させる必要が出てきて、考えを確認したり組み直したりする余地が生まれる。

基本的に自分も感情的に否定するところから入るものの、あれこれ考えているうちに一部でも取り込む気持ちになっていることは多い。成長とかなんとか言いたいわけではないが自分を居心地の悪さに晒すのもショック療法のようなもので、だぶついた現状へ刺激を与えるには十分だ。

scientiapotentiaest.hatenablog.jp

ビジネススキルを身につけることを考えたときに、物事の身につかなさはネガティブな受け止めによって引き起こされる場合が多い。頭ごなしに自分の考えやスタンスを否定されているような気持ちになることもあるし、こんなことできるわけがないと意気消沈させられることもある。

自らの安全地帯*1から出よ、というのはいろいろ言われる。技術や技法はただ道具として使えるようになればよく、人格を害してくるわけでも何かに売り渡すわけでもないのだがどうして人間はこうも自分に割り込んでくる言葉に対して抵抗があるものなのだろう。まあそれは詳しく考える気はない。ただ自分の都合の悪さに対してチャネルを開いておくことは偏見に塗れないためにも重要なのだと思う。

素直な人は覚えがいい、それだけである。

*1:ところでコンフォートゾーンはなぜcomfortable zoneではなくcomfort zoneなのだろう。